コーエーテクモ・襟川夫妻の二人三脚経営

以前書かれた記事ではありますが、光栄(現コーエーテクモ)の会長・社長夫妻へのインタビューである、シブサワコウとその妻が語るコーエー立志伝という産業の転換・法人の財務などの面で非常に興味深い記事があったので紹介します。

 

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光栄の幕開け

コーエーテクモといえば、「信長の野望・「三國志」「ウイニングポスト」「無双シリーズ」「アンジェリーク」「ビジネスシミュレーションゲームシリーズ」、そしてテクモ側の「デッドオアアライブ」など、有名なゲーム、通好みのゲームを多数リリースしています。

 

当初、コーエーテクモは、染料の卸業を主とする会社でしたが、PCソフトの開発・受託に完全にシフト、「川中島の合戦」より始まり、PC版信長の野望が大ヒット、そしてファミコンでも信長の野望全国版・三國志など、当時それぞれ10,800円、14,800円という、ファミコンのカセットが5,800円程度が主流だった時代に、驚異の価格で発売しヒット、その後も、あらゆるゲームメーカーが群雄割拠する戦国時代で独自の地位を築き、現在も強い経営基盤を保っています。

 


夫婦二人三脚で大帝国を築き上げた事例としては、APAグループの元谷夫妻が代表的な事例でしょう。

 

APAグループは、ホテル部門の社長の元谷芙美子氏が前面に出る一方、元谷外志雄氏が実務面を執り行い、二人三脚で、現在のホテル帝国とも言えるAPAグループグループを一代で築きました。

 

コーエーテクモの場合は、夫の襟川陽一氏がプロデューサー・シブサワコウとして(名前は出さないが、謎めいたプロデューサーとして制作にあたり、妻の襟川恵子氏は美大卒のキャリアを活かし、パッケージデザイン、経営・財務などに当たるという二人三脚の体制を築きました。

 

コーエーテクモは上場会社ですが、株主の資本構成を見ると、創業家の資本管理会社の株式会社光優ホールディングスが51%を保有、他にも創業者一族の保有割合も多く、資本面でもかなり盤石な体制と言えます。

 

一方、ゲーム戦国時代に生まれ、今でも存在感を示すメーカーは、コナミ・カプコン・バンダイナムコなど数えるほどしかありません。

 

ハドソン・ジャレコ・コンパイル・タイトー(存続はしている)・ジャレコなど、一時代を築いたり、通好みのゲームを作っていた会社は、現在は別メーカーの傘下に入ったり、多業種と合併している状況です。

 

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ギークとファイナンスのプロ

 

襟川陽一氏はインタビューで、

まあ、私としてはプログラミングはただただ楽しいんです。ゲームも私の一生のお友達ですしね。基本的には、全く辛くはありませんでした。 それに、私の場合は寝てしまうと、頭の中に入っているアドレスやサブルーチンの位置や内容が記憶から消えてしまうので、起きている間に一気に組み上げたいんです。だから、プログラムを書いていた頃は、もうなるべく一気呵成に書き上げるようにしていました。当時は、寝る時間も大変に少なかったです。

と語るくらいのギークで、根っからのプログラミング職人です。

 

ただ、襟川氏も、配偶者である陽子氏が、陽一氏の誕生日にパソコンを買ってあげたことがきっかけで、ゲーム開発に目覚めたという経緯があります。

 

夫妻が話すコーエー創業の経緯をそのまま引用してみましょう。

 

まあ、私としてはプログラミングはただただ楽しいんです。ゲームも私の一生のお友達ですしね。基本的には、全く辛くはありませんでした。 それに、私の場合は寝てしまうと、頭の中に入っているアドレスやサブルーチンの位置や内容が記憶から消えてしまうので、起きている間に一気に組み上げたいんです。だから、プログラムを書いていた頃は、もうなるべく一気呵成に書き上げるようにしていました。当時は、寝る時間も大変に少なかったです。

 

東南アジアから安価な繊維製品が大量輸入されるようになり、日本の繊維産業が斜陽産業の代名詞になりだしていた時代です。そうして、私が故郷の足利に帰って3ヶ月後には、父から経営の訓を受ける間もなく会社が倒産してしまいました。

 

一つ言うと、義父は会社がなくなる前に土地を売却したりして、地元になるべく迷惑がかからないように負債を整理しておいたんです。だから、よく本人は「あれは倒産ではなくて廃業なんだ」と言っています。 ただ、会社が”廃業”しても襟川家の商圏は継続できましたので、なんとか襟川に事業を継いでほしいという思いが義父にはありました。

 

私自身もその後、一年くらい残務整理をしながら悔しい思いをしていました。そこで、「父親が続けられなかった会社経営を、自分でやってみたい」と思い、光栄を起業しました。まあ、今となっては若気の至りだなと思いますが(笑)。

 

さらにエピソードは続きます。

義父には何としても息子に家業をつがせ、お家再建を果たす夢がありました。すると、私も足利に行かなければこの先、一生後悔するという気がしてきたんですね。義父のためにやれるだけやってみようと、私も足利に行く決心を固めました。

 

襟川の両親は逆に日吉の私のマンションへと引っ越してしまい、襟川も私の日吉の実家でパソコンショップを開いたんです。足利を離れることも多くなり、私は幼子ふたりと、夜になると怖くて寂しくなるような山の中で仕事をしていました。しかも、会社を継いだはいいのですが、倒産した襟川のところに仕事は来ないわけですよ! ヘビやネズミにムカデは来ましたけれども(笑)。

 

という、完全な逆境です。

今の業態では先が相当厳しい。

当時は、それまで取引があった会社に襟川が見積もりを頼んでも、何週間も返答に時間がかかったんですよ。資金面での不安が残っていますから、倒産した会社の跡継ぎなんかと取引したくないという態度が見え見えなんですね。仕事にならない日々が続きました。

そこで出会ったのが、当時のパソコンとも言えるマイコン。

 

当時、会社を作ってはみたものの上手く行かず、「ああ、やはり自分には経営者としての才覚がないのかな」と悩んでいたんです。それで本屋に行っては、松下幸之助さんや稲盛和夫さんなどの成功された経営者の書かれた本を立ち読みしたり、買ってきて読んだりしていたんです。
そんなある日、ふと『マイコン』という雑誌が目につきました。パラパラと開いてみたら、マイコンを使えばコンピューターソフトで教育ができたり、社内のOA化でコストダウンがはかれたりという、まるで夢のような話がたくさん書かれているんです。「こりゃ凄い」と思って、私はさっそく家に帰って妻にそのマイコンの話をしたんです。

 

しかし、当時のパソコンは、1970年代の貨幣価値で40万円以上。

 

だが、配偶者の陽子氏が凄かったです。

私は小さいときから親戚にもらったお小遣いを貯め込んでいるような子供で、学生時代から自分で仕事や投資もやっていたので、貯金だけはたっぷりありました。そこで、彼のお誕生日にマイコンをプレゼントをしたんです。
そうしたら、もう襟川がすぐに凝ってしまって……。

 

見事に陽一氏はマイコンにハマり、

ベーシックやマシン語を覚えて、財務管理や在庫管理、あるいは見積もりのソフトを自作するようになりました。

と。30歳を超えてから、もともとは全く感覚のないPCにはまり、ソフト会社として受託開発を始める。

 

このように光栄の創業、というより事業転換、そして第二の旗揚げが、現在のゲーム業界でも生き続ける光栄の転換点と言えます。

 

その後に続く孫正義氏、孫泰蔵氏のエピソードも必読ですが、次に語られる恵子氏のエピソードも、当時としては相当凄いと思わせる物です。

 

私が多摩美術大学にいたときに学生運動でストライキがありまして、その頃から自分で仕事をして稼いだり、株式投資をしたりはしていました。そもそもコーエーの営業担当者は私でしたし、現在もこの会社では資産運用の責任者です。
襟川が「マイコンショップを開きたい」と言い出したときも、私は自分の持っている土地を担保に入れたり、当時まだ470円だった任天堂さんの株を売却したりして、開業資金を工面できたんです。確かあの任天堂さんの株が、3,000~4,000株くらいあったかと記憶しています。

 

つまり、光栄の営業外収益は恵子氏の手腕による部分が極めて大きいこと、開業資金の工面(当時は1970年代だったので、1990年代~2006年の会社法改正の株式会社の資本金が1,000万円以上、有限会社の資本金が300万円以上だった時代ほどの資本金は要されなかったが、それでもある程度まとまったお金が必要であった)も恵子氏の蓄財があったからなしえたことを考えると、夫婦あっての光栄と思わせられます。

 

この中で、業務受託をしつつ、

業務用ソフトを作るのも面白かったんですよ。でも、それよりも仕事が終わったあとに、自分でゲームを作って遊ぶ方が楽しかったんですね(笑)。
その中でも、我ながら最も傑作だったのが『川中島の合戦』というゲームでした。後にコーエーの一番最初のゲームになった作品です。

と、仕事が終わった後にもマイコンでゲーム作りをし、楽しんでいました。

 

この「仕事の娯楽化」が、川中島の合戦、そしてその後大ヒットとなる信長の野望に繋がっていったと言えましょう。

 

さらに、当時のマイコンのプログラムはカセットテープだったので、テープ工場となったエピソードや、デザイン・グラフィック・広告などは美大卒の陽子氏が行われたことなど、見事に夫婦で得意分野を補い合っています。

 

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ファミコン戦国時代と、14,800円のカセット

PCでその後信長の野望・三國志などヒットさせ、ファミコン(1980年代のゲーム機)にも参入するわけですが、担当者としても初めて知ったのが、「ROM先払い制度」。

 

今だったら配信なり、steamに乗っけることで、大きな額の支出もなくゲームをリリースできるわけですが、当時は、「カセット」という物理媒体しか存在しませんでした。(そもそもインターネットはなく、パソコン通信があるかどうかの時代ですからね・・)

 

ROM先払い制度を引用すると、

ソフトを格納するROMカートリッジを、任天堂に生産委託する仕組み。最低発注数と1本あたりの前払い金があり、ファミコンに参入するためには最低でも数千万円単位で納める必要があった。

とあり、インタビュアーでPCゲーム専門誌のコンプティークを創刊、現在はコーエーテクモホールディングスの社外取締役(インタビュー時カドカワ代表取締役会長、現在は相談役)の佐藤辰男氏も、

 

一般には参入障壁を上げて粗悪なソフトが出まわるのを避けるための戦略だったと言われていますよね。

と話しています。

 

ただ、当時の光栄は営業社員が一人。

そこで、信長の野望・全国版のファミコン算入資金を調達するために恵子氏が行った施策が、

  • 和紙での招待状
  • 卸売り業者に、帝国ホテルで「『信長の野望』のファミコン参入の発表会を開く」と案内
  • 卸しの掛け率の相場を学生時代からのビジネスの経験で知っていたので、他社より高くして、卸に利益が出るようにした
  • その分、コーエーのゲームは、現金で全て先払いと言った(当時としては、商慣習とは全く異なる行為であった)
  • 卸売り業者も怒ったが、恵子氏も返す刀で、

 

 「ええ、おっしゃるとおりです。私たちには資金がないので、潰れるかもしれません。ですから、コーエーは潰れないと思われて、それでも『信長の野望』を仕入れたいと思って下さる方がいらしたら、ぜひ前金でお願いします」と答えました。

 

と、百戦錬磨の卸売り業者たちを目の前にして、さらっと返すと・・・。

そうしたら、今度は「金儲けしたいんだろ!」なんて凄まじい剣幕で怒られまして(笑)。

ドラマですよ、これ。

 

さらに、

「コーエーに将来性があるとお考えの方2、3社の方とだけでもお付き合いいただければ、それで幸いです」とひたすらお願いしました。

 

当時は、今よりも男尊女卑がひどい状態でしたので、おじさまたちの反発も強く、

 

任天堂さんには流通業者の方々から、「訳の分からない女が、頭のおかしいことを言っている」とか「非常識極まりない」とかの、たくさんクレームの電話が来たそうです。なにしろ前代未聞のことで、きっと九州から北海道まで私への悪口が飛び交っていたのでしょうね。
さすがの私もしばらくは落ち込んでしまったのですが、襟川と来たら「まあ、企業の中には人それぞれ役割があるからね」なんて言って、自分は涼しい顔をしながらゲームを作っていたんですよ!

 

と。

 

まさに、2人ともいろいろな意味で強者です。

 

その後、

そうしてしばらくしたら、もう銀行に大金がバンバン振り込まれてきました。(笑)。メインバンクだった支店長がびっくりして、すっ飛んできました。銀行にそういう入金があるなんて知らせていなかったので、「こんなことは初めてだ」と驚いていました。まあ、そのお金はすぐに任天堂さんにお支払いしてしまったのですが。

 

恵子氏も、預金通帳の記帳をして、驚いたことでしょう。

 

さらに、

最初は全額前払い。次回からは半金前払いでした。金利も当時は高かったので、すばらしい仕組みですね。私は義父の会社で手形の不渡りは懲りていますから、いつもニコニコ現金決済です。

 

いつもコーエーでは悪いことはすべて私の仕事なんです、ふふふ(笑)。でも、なんとか、醜態をさらしながらここまでやってきました。

 

こういうふうに、職人の夫・経営を行う妻と、完全に夫婦がお互いを補い合う、素晴らしい関係と言えましょう。

 

まさに、陽一氏、恵子氏二人あっての光栄です。

 

さらに、信長の野望が10,800円、三國志に関しては14,800円という価格設定も、前代未聞の物でした。

 

確かに、以前は価格が高いと言われましたが、ワードプロセッサのソフトが10万円していた時代だったんです。しかも、ゲームソフトはストーリーにサウンド、グラフィックスがあって、インタラクトデザインにプログラミングもある。当社はワープロソフトも作っていましたが、当社のゲームソフトは理系と文系の融合で、それよりもずっと大変だと思っていましたから。
ただ、『三國志』のときに1万4800円にしたときには、さすがに「1万円を超えるなんてだれも買わない……」と、社員・流通・ショップの全員に反対されましたけどね(笑)。

当時は、管理工学研究所のワープロソフト「松」が、128,000円という時代でした。(他にも「松竹梅のごとく「梅」というのもあり、それも68,000円ぐらいしたとのこと)

 

ただ、子ども向けのゲームでボリュームゾーンが5,800円~6,800円、高くても9,800円ぐらいの相場観の所にいきなり

 

14,800円

 

という高価格をぶち込むわけですから、ある意味業界の常識をぶち破るチャレンジです。

 

ここでも恵子氏は、

 

もう当時は襟川との離婚も辞さない覚悟で、14,800円でいくと一人で全員と戦っていました。大の男が女の細腕をだれ一人も応援してくれないんです。でも、私は「必ずこの価格でも大ヒットするはずだ」と思っていました。

 

と、あくまで信念を貫く。

 

そして、ここからが現代でも通じるところかと思うのですが、まずは全文を引用します。

 

私は学生時代からビジネスをやっていましたから、流通の仕組みや卸価格はよく分かっていました。
例えば、当時のゲームメーカーは定価の20%以下でソフトを卸していたりしたんです。学生が1~2週間も開発すれば作れるゲームもあって、しかもそれが売れてしまう時代でしたから、当時はそれでもやっていけたのかも知れません。
でも、本当に宣伝・広告、あるいは設備投資に人件費や経費等を考慮したら、やはりそれではビジネスとして長続きはしません。ですから流通の方ともよくぶつかりましたが、私はよくご説明し、決して相手を裏切らずというやり方で、信頼関係を構築してきました。そういう流通・ショップの方々やユーザーの皆様が最終的に喜んで下さることが、私のバイタリティになっているのだと思います。
でも、ある流通の方に「ヤクザなら警察があるけど、貴女は手に負えない」なんて言われたこともありましたけども……(笑)。

 

ここから今でも通じるところは、

  • PCソフトでの安易な稼ぎなら、当時はできてしまう状態であった
  • しかし、企業としての継続、ゴーイングコンサーンを実現するためには、三國志の内政・人材採用・軍備強化のように、「宣伝・広告・設備投資・人件費・経費」などに収益を投資しないと、ビジネスとして長続きしない
  • クライアントとぶつかっても徹底的に説明し、けして相手を裏切らない
  • ヤクザ以上にクライアントから畏怖(+この方には適当なことはできないぞ)と相手になめられない腹の据わり方
  • ケンカはしても、最終的には流通・ショップ・ユーザーなどステークホルダーに喜んでもらう

 

など、短期的な一発屋ではなく、長期の目線で見たことが、堅固なコーエー帝国を築き上げたのだと思います。

 

そして、そのあとに続く、投資ゲームの値上げの話も面白いですが、これは記事を直接お読みください。

 

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世界初へのこだわり

当時はインターネットどころか、パソコン通信などのコミュニケーション手段も相当限られた時代ですから、「世界初」というワードはわかりやすいニュース性を持って受け入れられました。

 

「川中島の合戦」は世界初の歴史シミュレーションゲームですし、「アンジェリーク」は世界初の女性向け恋愛シミュレーション、また、世界初かどうかはデータが見つかりませんでしたが、「トップマネジメント」は1984年に発売されたビジネスシミュレーションゲームです。

 

 

ビジネスシミュレーションゲームは一時期光栄が積極的に取り組んでいた分野で、パソコン会社の経営を行うトップマネジメント・トップマネジメント2の他にも、航空会社の経営を行うエアーマネジメント、ビデオデッキ開発会社の経営(昔は、ビデオテープでVHSとベータの二大規格があり、実際に覇権を取ったのはVHSでした)を行い、ライセンスやOEMの制度も反映したリーディングカンパニーなどを製作しています。

 

トップマネジメントは、PC会社を経営するゲームで、ゲーム性だけでなく、実際の経営や年次目標・資金繰り・開発・生産など、当時としては本格的な内容でした。

 

インタビューの中でも、

そういう意味では、一世を風靡した『トップマネジメント』(※)がありましたね。 会社経営の勉強になるシミュレーションゲームなのですが、政治家の世耕弘成先生がお好きだったそうです。NTTに勤めていらしたときに、トップマネジメントのおかげで会社の研修で一番になったという話を仰っていただきました。
襟川が『トップマネジメント』を制作したのも、絶対に会社を倒産させまいと勉強した成果だと思います。 まあ、こんなこと言うと、義父には「倒産なんかしていない、会社整理だ」と叱られてしまいますけどね(笑)。

 

また、他の歴史シミュレーションゲームも、

私からすれば、先にも言ったように『信長の野望』がそもそも国を経営するマネジメントゲームなんですよ。ですから、『トップマネジメント』を作ったときも、パソコンの製造会社を自分が経営して、競合のNECや東芝やIBMと戦うというイメージで作ったわけです。

 

 

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襟川陽一氏は、なぜプロデューサー シブサワ・コウと名乗ったのか

インタビュー終盤のエピソードも興味深いです。

 

なるほど。そろそろ本当に終わりの時間なのですが、最後に一つだけお伺いしてもいいでしょうか。シブサワ・コウという名前を長い間、襟川さんが自分だと名乗らずにいた理由は何だったのですか?

陽一氏:
2000年までは、一切表に出てこない開発のプロデューサーだという位置づけにしていました。 私が自分の名前を名乗っていたら、私が死んだら終わりだけれども、シブサワ・コウと名乗っておけば別の人が継いでいけると考えていたんです。
ただ、2000年に開発の世界にもう一度どっぷり浸りたいと思ったときに、もう自分の名前も顔も出してしまって、責任を持って「これは私が作っています」と言った方が時代に合っている気がしたんです。

 

実は、開発者としてのシブサワ・コウブランドも、ある種のゴーイングコンサーンを念頭に置いていたと言えます。

 

また、シブサワ・コウの名前の由来として、

コウは光栄のコウです(笑)。 シブサワの方は、渋沢栄一という幕末から明治時代にかけて活躍した経済人の方にちなんでつけました。その人の生き方が私は大変に好きだったので、その名前をいただいたんです。

 

彼の考え方は、「ビジネスというものはただ利益を上げることじゃない。世のため人のためになることにある」ということで、彼の人生はまさにその実践でした。私は、その生き方にとても惚れてしまっていたんですね。ですから、当社の企業理念は、「創造と貢献」という言葉にしています。

 

近年、「論語と算盤」などで、渋沢栄一氏が改めて注目を集めていますが、1980年代から、生き方に対し敬意を持っていたというところがすごいです。

 

インタビューの総括に関しても、サイトの方をご覧いただきたいですが、光栄のシミュレーションゲームは、少し前から流行りだした「○○になろう」「異次元世界に転生したら」などの、「もしも○○だったら」シリーズを、「もし戦国大名だったら」「もし会社の経営者だったら」「もしも馬主だったら(Winning Post)などをずっと前からゲームという形で実現していたと言えます。

 

この「もしも」という発想は誰でも思いつくことはあれ、発想をゲームに落とし込もうというのは並大抵の事ではできません。

 

これを実際に具現化したコーエーテクモ、そして襟川夫妻・開発陣は、相当な人たちと言えましょう。

 

 

 

 

 

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