米長邦雄氏の「人間における勝負の研究」に、ビジネスの要諦を見た

米長邦雄氏の「人間における勝負の研究」を通した学び

今回は普段とテイストを変えて、書籍「人間における勝負の研究」の紹介と引用を踏まえ、書籍の感想、担当者の考察を交えて書いております。

 

「人間における勝負の研究」は、将棋だけではなく、ビジネス・生活に応用できる学びが極めて多い書籍です。

 

当書籍を読んだのは、エリエス・ブック・コンサルティング代表取締役の土井英司氏の書籍、「『人生の勝率』の高め方」で推奨されていたのがきっかけです。

 

読めば読むほど、これは将棋だけでなく、ビジネス・生活全般にも応用できる点が多いと感じ、ぜひ経営者・ビジネスの最前線にいる人にもおすすめできる書籍だと感じました。

 

それでは、担当者の琴線に触れた部分を交えて、「人間における勝負の研究」を紹介していきたいと思います。

 

 

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時流に乗る事の大切さと、運・不運の乗りこなし方

 

経済での景気サイクル・時流だけでなく、当然人間にも、運・不運のサイクルがあり、いいこともあるが、大変なこともあるのは、想像に難くありません。

 

運がいい、ツキが来ているとき、またツキがないときはどうするか。また、仮にどん底に陥ったときはどうするか。どう考えるか。

 

米長邦雄氏の「人間における勝負の研究」には、

 

私は多くの人に、こんなに楽天的な人も珍しいと言われます。私の人生観が楽天的か 否 か、自分ではよくわかりませんが、私が自分の人生をそれほどひどいものにはならないはずだ、と考えているのはたしかです。なぜなら、父の時代に一度ドン底を打っているからです。運気には波があり、一度大底を打つと、当分の間は上昇一途になるものです。

とあります。

 

確かに極めて楽天的で、こういう考え方ができる人はすごいと素直に感じます。

 

普通の人は何かでどん底になると、終わったと思ったり、そこまで行かなくても、「しんどい」、いわゆる艱難辛苦と感じることもあるかと思います。

 

 

担当者も乳児期には心臓の病気、数年前に消化器系の病気を患うなど、その他しんどい経験もありましたが、家族、周囲の方に本当に恵まれたことと、本当に崖っぷちに追い込まれ、最後の火事場の馬鹿力でなんとかなってはきましたが、ここまで楽天的にはなれません。

 

基本的に頭では前向きになろう、と思っても、前向きになることは、ハードルが高いでしょう。

 

人生の「艱難辛苦」で思い出すのは、電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門氏の言葉です。

 

SBIホールディングスの北尾吉孝氏が記された記事には、松永安左エ門氏が、野村證券中興の祖として敬される奥村綱雄氏にかけた言葉として、このようなエピソードを記されています。

 

 

君の過去に失恋、落第、大病、左遷、脱税、逮捕、投獄といった経験はどれくらいあるかね」と尋ねられたという話もあります。

奥村さんが「失恋、落第は少々ありますが……」と答えられると、松永さんに「そりゃ人生経験が足りんようだ。絶体絶命のピンチを粘り強く頑張れない」と言われたそうで、松永さんのように刑務所に入ること自体が良いわけではありませんが、苦しい状況を数多経験しそこで耐え忍ぶという中で、人間が磨かれ一つの人間としての強さが出来てくるのだろうと思います。

 

 

大病・逮捕・投獄・破綻など、あるいは今まで築いたものを全て台無しにするアクシデントに直面し、どれだけの人が折れずに、「さあ、焼け跡からもう一回立ち上がろうか」とやっていけるのであろうか、と考えてしまいます。

 

当然、人生思い通りに行き、人に迷惑をできるだけかけずにいくことが理想です。しかし「まさか」のとき、まさに「絶体絶命のピンチ」に直面したときに、どう立ち向かい、粘り、切り抜け、時に真正面から受けずかわすか。

 

これも結果的に、「艱難汝を玉にす」という、「苦労や困難を堪えてこそ立派な人間になれる」という意味の故事成語があるように、大変なことがあってその時はしんどいけれども、結果としてピンチに立ち向かい、切り抜けることにより、人として磨かれていくのではないかという印象を持ちました。

 

担当者のように、元来気の強くない人間ですと、「胃に潰瘍ができていますね」といわれただけで、当初は、「がんだったらどうしよう、子供のことはどうしよう」などと考えたりしましたが、現状をあるがままに受け入れる覚悟、というか図太さを持てるようになれば、意外となんとか耐え抜いていけるものです。

 

「強風が吹いてれいれば、身をすくめて交わし、晴れたらまたあるいていけばいいのさ」と。

 

話を米長邦雄氏の書籍に戻しますと、「自分でも親の世代でも、一度どん底になれば、あとは這い上がるだけと考えればいいじゃないか」という解釈もなしえるかと思います。

 

米長氏の幼少時代等過去のエピソードに関しては、本書に譲ります。過去に大変なことを経験しても、運気、流れに関してこれだけ前向きに解釈できるのは、天性の部分だけでなく、米長邦雄氏が将棋・人生の大局面等を通して培われたものも多分にあるのではないかと考えます。

 

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孤独に耐え、人の目を気にしない

「人間における勝負の研究」には、

 

他人の知恵を借りたり、他人の目を気にしたりしないことです。 つまり、本当に強くなりたい、勉強をしたい、と思ったら、まず、独立心というか、孤独に耐えられる力が必要です。最終的に頼れるのは自分自身の力だけなんだ、ということがわかっていないと、本当の成長はできない。
という記述があります。

 

これも、米長邦雄氏が数多の対局を経てたどり着いた境地であり、「ただの孤独ではなく、競争や交流など、様々な人との関わりからたどり着いた」ものではないかと感じます。

 

担当者も含め多くの人は、世間の評判を気にする、いや、気にしてしまうものです。また、「最終的に頼れるのは自分自身」という言葉を、字面の上ではわかっていても、我が事として肚に入れ、行動に反映するのは簡単ではない。

 

また、「人間は環境の動物である」という言葉もあります。

 

「優れた環境の中にいて切磋琢磨することで、人は伸びる」という意味合いであり、棋界という勝つか負けるかの厳しい競争環境の中での、「独立・孤独に耐えることが必要」であって、競争も結果もない中での独立・孤独とは重さが相当異なると思います。

 

そして、群れない、傷の慰めあいになってはいけないという意味では、純粋に「孤独に耐える」ということの大きさ、価値がいかほどのものであるかを、改めて感じます。

 

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ビジネスに正解なんてあるわけない、お客様が正解であり、勝負に勝つことが正解だ

 

クライアントや関わる方とお話しても、「ビジネスに正解はないよね」「さもこれが正解だ!と言ってくる場合は注意したほうがいいね」などの話になることですし、これは尊敬する方の受け売りですが、

 

「ビジネスに正解なんてない!」ということです。

 

(ただし、帝国データバンクや東京商工リサーチか蓄積しているような、「これをやったら失敗するよね」という悪手は存在すると思います)

 

米長邦雄氏の「人間における勝負の研究」では、

実戦の場合は人生と同じで、最善手が何だかわからないことが多い。わからないものが、次から次へと飛び出してくるわけです。 そのうちに、わからないものを考えたって仕方がないんじゃないか、という気がしてくるものです。しかし、そこでもう一度、くじけずに気力を 奮い起こし、そのわからないものをいつまでも、鼻血が出るほど考え、自分なりの結論を出すのです。

 

人生と同じで、最善手はないとしている。

 

将棋であれば徹底的に考え、結論を出す、またビジネスであれば行動に移してみるなど、「正解はないけど、自分なりの結論を出す、行動をしてフィードバックを受け、チューニングしていくこと」は大事と思います。

 

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集中するべき時に、何に集中すべきかがわかっているか

 

米長邦雄氏の「人間における勝負の研究」では、「集中」というトピックについても言及しています。

 

まず、今、何をなすべきかを明確にしなければならない。それがわかったら、全力を挙げて取り組む。よく「集中力がないから……」という言葉を耳にしますが、それ以前の問題として、「何に集中すべきか」が、本当にわかっていない場合が多いようです。

 

集中すると一言で言っても、本当に集中すべき、「物事のセンターピン(なお、前掲の『人生の勝率の高め方』でも言及されています)」の部分に集中力が注がれていなければ意味がない。

 

自戒の意味も込めて書きますが、目の前に積まれている仕事をこなすことに集中して、一方で事業のボトルネックとなっている部分については集中が不十分になる、ということも起こりえます。

 

集中力そのものも大切ですが、何に集中すべきか、力の入れどころの見極めも、重要な要素と言えましょう。

 

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正直・誠実であったが故に損をし続けた米長邦雄氏のお父様と、それをポジティブに捉えた米長邦雄氏の思考

 

人間における勝負の研究の初頭(Kindle 188行)で、米長邦雄氏の人生観と、父を恨まず、生き方を肯定するという一説があります。

 

父の生涯は清らかなものでした。〝正直者は損をする〟という諺のお手本みたいな男でした。そのため、十何代も続いた家を 潰したも同然にしたわけです。しかし、そのことで私は父を非難する気持ちにはなりません。そうした父の血や信念は、私の体の中に脈々と生き続けているからです。  父の生き方は、ある部分はそのまま、ある部分は屈折した形で、私の人生観を形づくっていると言っても過言ではありません。

 

正直が最後には勝つという考えと、正直者は損をするという考え、双方あるでしょう。

 

米長邦雄氏のお父様の場合、正直・誠実であるがゆえに、家を没落させてしまった。

 

しかし、清い生き方をしてきたお父様の背中を見た米長邦雄氏は、結果、お父様の代では大変な状況に直面しつつも、「永世棋聖 米長邦雄」という傑物を次代に残した。

 

財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり

財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なりという格言があります。

 

この言葉に続きがあり、

「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり されど、財なさずんば事業保ち難く、事業なくんば人育ち難し」

 

つまり、お金がないと事業は保てない、事業がなければ(ビジネスを通してでなければ)、職業人としての人間性、そして人間そのものが育ちにくいという補足もあります。

 

これをご覧になっている経営者・管理職の型は人を雇用・育成したり、業務委託などを行っている方も多いかと思いますが、これも「人を育てている」と大いにいえると思います。

 

また、安政から昭和を駆け抜けた、政治家・医師の明治維新の後藤新平氏は、今際の間際に「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」と話したエピソードもあります。

 

米長邦雄のお父様は、財や仕事を残すことはかなわなかったかもしれませんが、「傑物 米長邦雄」を世に出した点ではまさに「人を残した上の人」と呼べるでしょう。

 

米長邦雄氏のエピソードには、天才性をうかがわせるエピソードから、人間味、そして「清濁併せ呑む」を地で行くような事、様々見受けられ、ここで詳細を書くことは控えます。

 

ただ、いずれにせよ米長邦雄氏が棋界に遺した功績の大きさは、米長邦雄氏ご自身の様々な修練、そして米長邦雄氏を育てたご両親、棋士として背中で様々なものを見せた佐瀬勇次名誉九段の存在など、当人・関与者の存在あってのことと言えるかと思います。

 

人生とは、悪手の山の中を歩いているようなもの

人間における勝負の研究では、人生を「悪手の山の中を歩いているようなもの」と例えています。

 

悪手の山の中を歩いているようなものが〝人生〟なのです。 こういう状況の中では、悪手を指さないことくらい大切なことはない、という気さえしてきます。そして、少なくとも現在の自分よりも悪くならない手、ちょっとでも向上する手なら、どんな手を指してもいい、という考えも浮かんできます。

悪手を指さないこと推奨する一方、何も動かないというわけではなく、「少しでも向上の余地があれば、動いてよい」ということも示しています。

 

運の流れに対する米長邦雄氏の考え

運に対する米長邦雄氏の考えも、一つの人生訓として興味深いです。

 

運というのは、その波長は違いますが、すべての人に平等にやってくる。そして、できるだけその波のいいところをつかまえて、うまく乗った人がよい結果を得ます。 人生にはこの運の大きな波が何回かあり、小さな波は小刻みにたくさんくる。大きな波にうまく乗れるか、あるいは呑み込まれてしまうか、それが人生の岐路となるのではないでしょうか。

 

チャンスの女神は前髪しかないとよく言われますが、この波の例えも近しい、むしろより具体的な例えで、なるほどと思えます。

 

また、波は、大波に加え、小波も小刻みに来る。

 

つまり大きなチャンスとともに、小さなチャンスも度々やってくる。こう考えると、今の時点ではチャンスに恵まれていなかったとしても、どこかで大なり小なり波をつかもう、という気持ちになれるかもしれません。

 

答えがわからない、直面した問題の意味がわからないときの米長邦雄式対処法

答えがわからない、あるいはそもそも問題が何かわからない(特定できない)ということは、ビジネスでもプライベートでも、ままあることでしょう。

 

人間における勝負の研究では、

 

将棋に限らず、世の中には、自分には答えがわからないのか、直面した問題の意味がわからないのかがわからずに、右往左往している例が多いようです。これでは、何がわからないかがわからず、自分の力で答えが出せるかどうかもわかりません。だから、考える順番としては、まず、 ① 問題の意味は何か、 ② 答えは何か、ですが、たいていの場合、ここでわからなくなります。そうしたら、今度は、 ③ 自分の力で答えが出せるか、と考えてみる。そして最後に「無理だ」という結論が出たらどうするかということがポイントになります。

 

とした上で、それでもわからない場合、

 

大事なことだからこそ、簡単に決めるべきだと私は思います。悩み、考えあぐねてから答えを出す場合よりも、だいたいにおいて間違いが少ないものなのです。

と記されています。

 

わからなければ、最後は下手に考えるより、簡単に決める。

 

これも数多の対局からえた経験知なのかもしれません。

 

また、カンに関して、

 

実生活のなかでも第一感とか、カンというものが大きな位置を占めているということです。 ところで、カンが生まれるプロセスは、コンピュータの働きに似ているようです。瞬時にして膨大な量の計算をして、パッと答えを出すので、計算をしているという時間的な実感がない。ないけれども、ちゃんと計算をしている。したがって、カンが悪いというのは、すごいスピードで考えたり、読んだりできないということと同じなのです。

カンは単なる当てずっぽうではなく、これまでの経験・知識その他あらゆるものを瞬時に呼び出し、当人の頭の中で計算させている、勘が良い人は頭がよいし、勘が悪いのはそうではない、ということも示唆されています。

 

さらに、他にもカンに関する興味深い部分を引用します。

カンというのは自分が好きで必死で取り組んでいないと、働かないものです。嫌いな分野とか、やりたくないなと思っている仕事で、鋭いカンが働いたという話は聞いたことがありません。嫌いなものというのは、自分が不得手、できないから嫌いになる。

 

人間にとって大切なものは、努力とか根性とか教養とか、いろいろあります。しかし、一番大切なものはカンだ、と私は思っています。カンというのは、努力、知識、体験といった貴重なもののエキスだからです。その人の持っているすべてをしぼったエキスです。ミキサーをガーッと回してしぼっているようなものですが、そのスピードがあまりにも速いので自分でも気がつかない。新手、新発明、新発見、いずれをとっても総合力を基にしたカン、 閃きなのです。

 

このように、米長邦雄氏が、カンというものを単なる直感ではなく、「努力、知識、体験といった貴重なもののエキス」とまで表現しているのです。

 

カンがよい、というのは、これまでの人生経験により蓄積された、一つの大きなスキルと考えることもできましょう。

 

あなたは戦友の介錯人になれるか

中国の歴史の三国時代において、蜀の劉備が、重用していた馬謖をミスにより処断するという「泣いて馬謖を斬る」という言葉は有名でしょう。

 

人間における勝負の研究には、あと一回負けると奨励会より退会、つまりプロ棋士としての生命を実質絶たれる状況の相手との対局に関するエピソードがあります。

 

さて、この勝負をどうしたものか、と悩みましたが、私は首を切りました。なぜかというと、私がその人の首を切らないと、誰か他の棋士が代わりに首を切られるからです。  将棋の世界は、その人を助ける、金を渡せばすむ、というわけにはいかない世界です。その人を助ければ、代わりの誰かが川へ落とされることになる。つまり、船に乗る人数は決まっていて、どうしても 溺れる人が出てくるようになっているのです。  助けてやって、みんなが船に乗って行けるのなら、それでいい。しかし、それは勝負の世界の話ではない。私情に流されることには、何の意味もないのです。

 

私はその時、その一番に勝てば、自分にツキがくる、大きな運を呼び込むために必死に戦って勝つのだ、と考えました。

 

つまり、誰かが悪者、というと言いすぎですが、介錯人の立場、引導を渡す立場にならなければいけない。

 

また、変に情けをかけ、手加減をすると、自身のツキが逃げるかもしれない。

 

その試合では、米長邦雄氏が勝利し、相手の棋士は棋界を去ることになりました。もちろん、これで相手の人生そのものが終わるわけではなく、新たな道を歩むことになるわけなので、ここで余計な情けをかけず、あくまで本気でぶつかったことが、米長邦雄氏の勝負師らしさと言えましょう。

 

勝負に負けている、負けたときの処し方

勝負に対し、負けているときの処し方も興味深いエピソードでした。

 

男が勝負に負けた時は、何を言われても、じっとしているに限る。これはもう鉄則です。同じことをしても、負けた時は非難されるので、何か言われるようだったら「ああ、今のオレは不調なんだな」と自分に言い聞かせて、ムキにならないようにする。勝っている時は、将棋の内容がどうあろうが、競馬に夢中になっていようが、いっさい文句は言われない。この世界は「勝てば官軍、負けたら辛抱」なのです。

 

負けはじめると悪口の集中砲火で、「あんな男にまで悪く言われるのか」と腹が立つこともあります。しかし、それが発奮材料になって、今に見ていろと頑張れば、それでいい。そこで怒ってしまうとダメです。あいつは 器 が小さい、ということになってしまいます。 そこで、じっとこらえて頑張る。そして勝った時に威張るのではなくて、勝った時にもまた、おとなしくしている。これは自分の素直な心の動きを抑えるわけですから、辛いことです。

 

あらゆる世界で、「勝てば官軍、負ければ賊軍」であります。

 

 

賊軍になってしまったら、また不利になればどうするか。

 

形勢がよい時はじっと動かないこと。形勢が悪くなった時には、必死に我慢して、どこで逆転するかの方策を立てること。

 

問題は形勢が悪い時です。悪い状態のまま、じっと待っているだけでは、ジリ貧 に終わります。  だからといって、形勢の悪い時に勝負手を放っても、だいたい不発に終わるのです。まずそのことを知っておくことが大切。形勢が不利な時に、妙案のつもりでおかしなことをやっても、たいていは墓穴を掘る

 

不利な時というのは、相手が刀を振り回しているのを、必死にかいくぐっているようなものです。こちらが手にしているのは絵筆一本。しかしこれには猛毒が塗ってある。もし相手がつまずいたり、自ら刀で傷をつけたら、全力を挙げてこれを塗り付けるというわけです。 よく週刊誌とか新聞にスキャンダルが出ます。あの男に深い仲の女がいたとか、脱税したとか、ノミ行為をしたとか。そういうスキャンダルや、あるいは悪口を書かれたり、言われたりした時、ほとんどの人が慌てて弁解したり、むきになって相手に反撃を加えたりします。 そして、そのコメントがまた載るわけですが、これはかえって傷を深くすることになります。

私のほうは潔白です。あっちが悪いのであって、本当はこうなのです」といった弁明をしてもダメ。一方が一〇の悪口を言ったときに、それを消すのに二〇の言葉で反論したとしても、二〇マイナス一〇は、差引き一〇のプラスという答えにならないのです。

だから、世間の噂や誤解に基づく非難に対しては、しばらく、じっと静かに耐えているのが一番いい。こちらが正しければ、そのうちに真相がわかってくる。どうしても反撃がしたければ、それからでも遅くありません。

 

不利でも、負けても適切な処し方をする、つまり「じっとする」を保つ。そして発憤材料にすればいい。

 

不利になってもチャンスは必ず来るものです。したがって、そのチャンスが来るということを念じながら、じっと様子をうかがっているのが正解です。 では、それは具体的にどういうことか申しましょう。将棋で言うと、大小の差はあれ、必ず相手がミスをするものなのです。そして、そういうミスが出るまで、じっと我慢できるかどうかが、勝負のポイントです。

 

驕る平家は久しからずという言葉もあるとおり、勝って調子に乗り続けていてもどこかで足をすくわれる恐れもありますし、負けていても耐え忍び、心の中で「今に見ていろ」と発憤材料にする。

 

また、不調の時の米長邦雄氏の対処法として、

 

不調になると、好調の頃の自分の生活を思い出してみる。あの時は誰とも付き合わなかったとか、誰それとよく酒を飲みにいったのが気分転換になって、いい結果を生んだのだなとか。あるいは、今は深刻に考えすぎているのかなとか反省しているうちに、なるほど、こういうところに余計な神経を使っているからダメだったのだ、と気がつくようになり、不調の原因の一端がわかってくるのです。そして、原因がわかれば、半分は直ったと思ってもいい。病人と同じで、最も大きな不安は、「なぜ調子が悪いのかわからない」(中略)

という対処をされているのです。

 

人生には波がある中で、勝っているときの処し方、負けているときの処し方は、それぞれ大切と言えましょう。

 

米長邦雄氏の子育て論

子育てに関するエピソードの中にも、興味深い一節がありました。

 

子どもの教育問題でいえば、塾へ通って試験の点数さえ高ければよし、という風潮はおかしい、ということに似ています。子どもは勉強も運動も遊びも、いろいろなことをやるべきでしょう。ただし、何をするにしても、どこまで許されるのか、認められるものなのかを知らなければいけない。それがどこまでわかっているかで、本当の意味の知性とか教養とかが身につき、全人格的に成長していくのでしょう。将棋と棋士との関係も、同じようなことが言えるようです。

 

担当者としても「確かにその通り」と思うとともに、「どこまで許されるのか、認められるのか」の境界線を教える、体感させる、そして超えていけない部分を超えたり超えそうであれば叱る、ということは、大切と感じます。

 

例えば、担当者は自分で家族の食事を作るだけでなく、子どもに皮むき、すりおろしなど簡単な作業の手伝いをしてもらうことがありますが、基本的には自分でやってみさせる。

 

しかし、ピーラーや包丁で遊び始めたり、包丁を自分や他の人に向けたら強く注意する。

 

こういう、境界線をきちんと教えることも教育の重要な要素でしょう。

 

日本国に貸しを作るという考え

当書籍では、米長邦雄氏が、当時の大蔵省より一万円で講演依頼を受け、同じ時に15万円の講演があったのにも関わらず、大蔵省の講演を優先しています。

 

一五万円くれるというのは断わったのに、一万円で引き受ければ一四万円の損です。しかし、この一四万円は、大蔵省のお役人、ひいては日本国への「貸し」です。この貸しがどういう意味を持つかは次章で述べますが、とにかく、私は講演を引き受けました。お金の額には関係なく、この講演は行ったほうがいいからと判断したわけです。

 

とにかく私利私欲とは無縁の仕事しか、引き受けない。そういう時期には、目先の個人的な利益よりも、もっと大きな視野の判断基準で行動する。そして、私は、そのほうが、「米長邦雄の一生」という長い目で見たときに、結局は「トク」をするものだと考えているわけです。

 

ここで、どなたか有名人が浮かんだ方もいるかもしれませんが、大蔵省で講演をすることで、国に貸しを作る、「日本という銀行に貸しをつくる」という例えをしているのは、なかなか面白いな、と感じます。

 

米長邦雄氏の考える、勝負師・父としての背中と仕事論

引用も含め一万字を超える文章になりましたが、最後は米長邦雄氏の教育論・父親としてのあり方に関する部分に触れていきましょう。

 

私の人生には、将棋という仕事があって、遊びがあって、家庭がある。男にとって、第一は仕事です。仕事が第一でないという男は、私から見れば全然話にならない。それでは男じゃない、と思っています。 それくらい、男というのは仕事をすることが当たり前なのですが、同時に、男は仕事だけではいけないのです。男がよい仕事をするためには、家庭が治まっていなければいけないし、また遊びのほうも充実していたほうがいい。仕事と家庭と遊びの三つでは、仕事が断然上位なのですが、この三つともうまくいっている時が、男は一番幸せなのだ、というのが私の人生観、あるいは人生設計といえます。

 

また、他にも興味深い論考が記されています。

 

収入が多いか少ないかは、結果として出てくる問題であって、将棋を一生の仕事とする動機は、それが自分の生甲斐になるかどうか、という観点からしか生まれてこないはずです。

 

要するに、自分の好きなことを仕事とするのだという人間、こういう人間が多くなることが、これからの世の中にひじょうに大切なのではないでしょう(中略)

 

また、何かの含みがあるくだりもあります。

「遊びとは仕事の影である」これが、私の遊びの定義です。ですから大きな仕事の影は、やはり大きくて当たりまえ(中略)

 

さらに、ここでも引用部分が長くなるのをお許しいただきたいのですが、ニュアンスも含め、そのまま引用します。

 

仕事、遊びの一方で、男が忘れてはならないのは、家庭を治めるということです。仕事の鬼だけど、家庭はおろそかというのでは、男としての資格は完備していないと思います。私は、平凡ですが、妻子を 慈しむし、女房や子どもたちから「うちのお父さんは尊敬できるお父さんだ」と思われるようでありたいのです。父親としての尊敬は、収入の多い少ないとはあまり関係がない。見てくれも関係ない。父親が一所懸命に仕事をやっているかどうかで、尊敬されるか、うとんじられるかが分かれるのです。子どもというものは、一所懸命に仕事をしている父親を尊敬するものです。父親が尊敬されないのは、仕事をいいかげんにするからです。

 

父親として大事なのは、むしろ、仕事や遊びで子どもに背を向けているときではないでしょうか。そんなとき、子どもは父親の背中を見ながら、きっと自問している。 「父親が今していることは、自分と遊んでくれるよりも大事なことなのだろうか――」と。  そんな時、父親の背中に必死さというか、真剣さが漂っていなかったら、それはもう父親の負けです。ですから、父親の一番大切な役割は収入を確保することとともに、子どもに「うちの父さんは一所懸命働いている」と思わせることでしょう。

 

一方、母親は、とにかく夫を尊敬することです。非行のケースをよく調べてみると、その子の家庭では母親が父親をないがしろにしているとか、軽蔑しているとかという場合が目立つそうです。そういう家庭にいたら、子どもが精神的におかしくなってくるのは当然(中略)

 

父親・母親のあり方として、なるほどと思う方も多いと一方、反発を覚える方もいるかもしれません。担当者としては、この意見に、「確かにその通りだ」と感じます。

 

何人かの子どもが、「この道を走りたい」というのなら走らせてやってよい。しかし、大人が、「道はこれしかない、全員この道を走れ」というのは間違いです。また、子どもがそう思い込んで、一つの道だけに殺到したら、「ちょっと待ちなさい、他にも道がある」とブレーキをかけてやるのが大人の役割でしょう。

こういう、先導役やブレーキ役も大人の大きな役割です。

 

子どもの教育で一番大切なのは何かというと、それは集中力をつけてやることに尽きます。

私は、子どもに対して、才能や適性をあれこれ考えるよりも、集中力をつけてやるのが一番のプレゼントだと思っています。そして、それには、好きなことをやらせるのが一番いい。子どもはやりたいことを一所懸命やっているうちに集中力を身につけていくものなのです。

「お前は一流になる」「お前は大物の 器 だ」と言って励ましてやり、子どもが自分でもそう思い込んだら、こまごまとした目先のことで、いろいろ注意する必要はなくなります。そういう自覚は、おのずと自らを律するものなのです。

集中力をつけるというのはとても大事で、今ならスポーツでも、将棋でも、Eスポーツ(ゲーム)でも、研究でも、マンガでも、没頭、集中できる物があるのは大きいし、子どもはいろいろなことに目移りしがちな中で、なにか集中できるものをみつけ、そこにはまり込む。

親もその集中力を育てるよう配慮する、これも子育てにおいて大切なことと非常に共感しました。

 

仕事が好きだ、つまり職業の娯楽化・ゲーム化ができるか

 

若者を受け入れる会社や国家も、これからは、仕事が好きだ、自分の仕事を愛しているという人間を必要とするようになる、と私は信じています。 そうなると、勉強ばかりしている学生よりは、趣味に熱中している若者の存在価値が高くなるかもしれません。子どもでいえば、遊んでいてはダメだ、と叱られていたのが、むしろ、遊んでいる子どものほうがいい

という一節があります。

 

「私の財産告白」を記した本多静六氏は、「人生の最大幸福は職業の道楽化にある」と述べています。

 

AI、ロボティクス化により単純労働がどんどん不要になり、人間が扱う仕事は減るでしょうが、「人間でないとできない仕事をできる、しかも楽しんでできる」ということは、様々な意味でアドバンテージになるのではないでしょうか。

 

最後に、もう一節引用します。

 

いずれにせよ、人間は自分が好きで選んだ仕事で生活できることは、とても幸せなことです。自分の仕事を愛せるということは、かけがえのない大切なことです。

 

これは全ての大人・職業人に今だからこそ、問われることのように思います。

 

(了)

 

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