安田隆夫氏の著書、安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生には、未経験だからできる勝ち方・苦境からの立ち直り方・ビジネスで見るべきは誰か、敗者復活の重要性が記されている
今回紹介する、「ドン・キホーテ」創業者で、一代で「ドン・キホーテ」を成長させ、社員への徹底した権限委譲で成長。長崎屋、ドイトなどの小売企業等を傘下に収める、PPIH(パン・パシフィック・インターナショナル・ホールディングス)を造りあげた安田隆夫氏の書籍です。
当書籍の要点をピックアップすると、
- 未経験ならでは勝ち方
- 苦境時の立ち直り方
- 高尚な理念など最初は必要ない
- ツキがなければ「見」を決め込め
- 祭りが人とカネを動かす
この他にも今後追加しますが、興味深いエピソードが大変多いです。
また当書籍も前回の、
米長邦雄氏の「人間における勝負の研究」に、ビジネスの要諦を見た
と同様、大変興味深く、出版から現在4年、さらに年が経っても色あせないであろう、大変興味深い内容です。
「なぜ、ドン・キホーテがここまで成長したのか」という要素や、安田隆夫氏ご自身の、率直な述懐、権限の委譲・人材育成など、多くの経営者・管理職が悩む要素についても触れられており、引用、当ブログ担当者の感想なども交えて、記述します。
高尚な理念ではなく、強烈な情念と決意が、流通業界の異端児を造った
まず、この書籍は経営書というより、安田隆夫氏の自伝という要素があります。
この中は、高尚なことではなく、「いかに流通・小売り未経験の安田隆夫氏が模索をしながら、ドン・キホーテを成長させたかが生々しく記されています。
起業の理由として、あるエピソードを踏まえ、
「どんなことになっても、こいつらの下で働く人間にだけは、絶対になりたくない。ならば自分で起業するしかない。ビッグな経営者になって、いつか見返してやろう」 そう固く心に誓ったのである。この決して高尚とは言えない、ごくごく私的な情念と決意が、私のビジネス人生における原点だ。 「えっ、起業を志した理由は、たったそれだけですか?」と、よく人に聞かれるのだが、これがすべてなのだから「そうです」としか答えようがない。
「ビッグな経営者になって、いつか見返してやろう」、つまり、最初は「我欲」で起業したということを、率直に記されています。
自伝であれば、「既存の流通のあり方、売り方に疑問を感じて・・」とか、「お客様に世界一愛される企業を創ろうと思った」など、聞こえのよいことを掲げがちですが、当書籍では、その点創業の動機を正直に語っておられます。
しかし、この創業動機が、ドン・キホーテを成長させる強いエンジンとなったことは想像に難くありません。
スタートは我欲でもいい、そこから試行錯誤・成長して、理念や企業人としてのあり方など、変えていけばよいわけです。
ギャンブラー・勝負師として
安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生では、安田氏が、若いときはあらゆるギャンブルや勝負事にはまったエピソードも記されています。
例えば将棋のエピソードでは、先日記載した米長邦雄氏の、「人間における勝負の研究」にも通ずるところがある、「見」に関する記述があります。
プロ雀士との息詰まるような真剣勝負の中で、「運気の流れ」「勝負の勘どころ」などを見抜く力を身につけたと思っている。ツキのないときは無理せず「 見」を決め込む。その姿勢が身についたおかげで、大やけどをせずに済んだこともたくさんあった。だから当時の生活がまったくの無駄だったとは思わない。
とし、ツキがなければ無理しない、「見」を決め込むなど、下手に動かないことを、勝負の中で体得したことを記されています。
後にこの「見」が、結果として大きな災厄を免れたエピソードがありますが、これは後に言及します。
ここから得られることは、将棋・囲碁・麻雀などの勝負、あるいは現代であればE-スポーツなどの、一見仕事には直結しなさそうな勝負事であっても、けして無駄にはならない時もある、むしろ様々な局面で生きることがありうるという点でしょう。
安田氏は、窮地においてどのようにして気持ちを立て直し、脱したのか
経営者・管理職など、決定、責任を背負う立場になると、様々な重圧で落ち込むこともあります。
安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生では、安田氏がどのようにしてこの状況から抜け出したか、「安田流ネガティブモード脱却法」が記されています。
途中略してある部分もあり、ぜひとも詳しい部分は書籍をご覧いただきたいのですが、
かつてないほど落ち込んだ私が、その時に会得した、究極の「ネガティブモード脱出法」を紹介しよう。この方法は私が窮地に陥るたびに実際に何度も繰り返してきたもので、その効果は保証する。今までも何度か公表してきたが、あらためて紹介したい。
(中略)一人で自宅に引きこもるのである。 昼間から雨戸やカーテンを閉めきり、じっと何もせずに過ごすのだ。 外出は厳禁。散歩はもちろん、買い物もダメ。食事は買い置きや出前で済ます。テレビやラジオもつけずに外界の情報や気晴らしになるようなものはすべてシャットアウトする。できれば布団をひっかぶって、 陰々滅々とした環境の中、仕事のこと、(中略)将来のことを徹底的に考え抜くのである。 あなたの脳裏には、さまざまな思いが去来する。過去を思い出しては他人を恨んだり、嫉妬したり、将来を考えては怖気づいたり、不安になったり……。自己嫌悪、欲求不満、 怨み、恐怖……そうした情念にとらわれ、気持ちが深く沈みこんでゆく。 しかし、決してそこから逃げてはならない。ひたすら悶々と、布団の中で落ち込むだけ落ち込むのである。この状態を三日も続ければ、突然、鬱々とした気分が劇的に晴れる時が来る。
「一体、俺は何をしているのか。このままではダメになる。思い悩んでいる場合じゃない。俺はやりたい、やらなきゃならないんだ……」 そういう押さえ切れないパワーとエネルギーが、内からみなぎってくるはずだ。
このように、とことん引きこもり、落ち込んで、そうしていると、どこかで気持ちの「逆転のスイッチ」が入る。
世間では常にポジティブであれと主張する人もいます。
常にポジティブであろうとすれば、人によっては(特に繊細・正直で)前向きであろうとする人ほど、ネガティブになってはいけない、常に動こうと真逆の発想になりそうですが、安田氏の場合は、ネガティブを受容し、徹底的に受け入れる、そして心の澱を吐き出し、切り替える。
一つの興味深い立ち直りの手法と感じます。
なぜ「祭り」の衰退とともに、ハロウィンが流行りだしたのか?そして、日常と非日常、ドン・キホーテの関係とは?
安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生では、「祭り」に関する記述があります。
ある程度の年代の方であれば、地域のお祭りや土曜夜市など、時季各々の祭り、イベントを子供心に楽しんでいたかと思います。
しかし現在は、コンビニの存在や店舗の長時間営業により、祭り、イベント的な物が薄れつつあります。
また、ドン・キホーテの存在自体も、通常とは異なった時間帯、店構え、品揃え、陳列などが「様々なものを扱うお祭り感」「深夜まで営業している」という、感覚を受けます。
安田氏は、「夜の経済の重要性(ハレの経済)」を踏まえ、
夜の経済と不可分な要素が「祭り」だ。古今東西、電気のない時代から、祭りは夜にやるものと相場が決まっている。夜祭りはあっても朝祭りなどというのは聞いたことがない。夜は非日常感と自由度が高まり、ストレスの発散度も高くなる。
いずれにせよ、今の若者は祭りに飢えているのではないか。たとえば、本来西洋の祭りであるはずのハロウィンの、近年のわが国における、あの異様な盛り上がりぶりは、いったい何なのだろう。おかげで当社も、大いにハロウィン効果を享受させてもらっているが、結局、あのハロウィン現象は、祭りへの飢餓感のあらわれと私は理解している。
とし、「若者がリアルなエンタテインメント、つまり『祭り』に飢えているのではないか、だからそのエネルギーの発散場所として、ここ数年ハロウィンが流行りだしたのではないか」と考察しています。
担当者も一度、ハロウィンが問題になる手前の時期の渋谷に行き、「なぜハロウィンで若者たちは集まり、騒ぐのか」、実際にその場を歩くことで見てみた経験があります。
ハロウィンの渋谷には、昔の祭りみたいに露天があるわけではありません。
ただ、あらゆる人たちが扮装・コスプレをし、特に理由もなく町の中を歩き回っている。時には若者同士の小競り合いもあり、横たわる人もおり、道には赤く染まったビール瓶が投げ捨てられいる。
みんなが、あえて「ピエロ」のようになれる場として、渋谷のスクランブル交差点付近やセンター街に集まっている。(その中には、映画のジョーカー、までは行かなくても、危なっかしいふるまいをする人も出てくるわけですが・・)
ある意味、ハロウィンがエネルギーの吐き出し先として作用しているわけです。
また、先日のラグビーワールドカップや、サッカーなど、人々は「騒げる理由」を探しているともいえます。
他にも、花火大会、地域の祭り、コミケ、クリスマスなど、イベントがあると、連動して様々なナイトエコノミーも動きます。(現在の渋谷のハロウィンなど、店舗が迷惑を受けるケースもあり、全てを肯定的に見られるわけではないですが)
この「賑わい」「熱気」を創りだし活かす手法として、安田氏は、
要はドンキ初期の成長戦略(夜祭りの縁日的演出)を、国や地方自治体がマクロに取り入れ、思い切った規制緩和なり独自のイベントを多催するようにすれば、かなり有効な消費と内需拡大が期待できると思うのだが、いかがなものだろうか。
と記しておられます。
確かにその通りであり、特に地方に行けば行くほど、様々な意味での「お祭り」というのは減りつつありますので、ここは大変面白い着眼点です。
近年議論を呼んでいるカジノも含めたIR・総合型リゾート施設の誘致について、さまざまな意見も出ていますが、担当者個人としては、「IRが創り出す活気」というのはとても大きな要素と考えています。
マリーナ・ベイ・サンズに宿泊したり、やその周辺のマリーナ・ベイを散策したことがありますが、まさに「毎日がお祭り」という状態でした。
夜に行われる、プロジェクションマッピングを活用した噴水ショー、謎の遊園地、大音量が流れるクラブ、マリーナ・ベイを眺めながら一杯立ち飲みができる場所など、場にいるだけで「活気」が感じられる場所でした。
(シンガポール・マリーナベイサンズのカジノエントランス・謎の遊園地など)
これを、風紀を乱す、治安を悪化させる、いかがわしいなどと、「世の中は健全であるべき」という「べき」志向で反対するのは、猿でもできるでしょう。
しかし、清濁併せ呑むナイトエコノミーを、いかに光と闇の中で折り合いをつけ、アウフヘーベン(止揚)させ、「健全・美しさのある中での、少々の猥雑さというスパイスを振りかけながら造りあげるか(つまり、儲かればいいではなく、ステークスホルダー・近隣住民・社会への配慮」「いかにゾーニングするか」などを考えることの方が、よほど生産的で、自国に様々なプラスを生み出すのではないかと思います。
ドン・キホーテの売場作りへの情熱
ドン・キホーテ、そして創業者安田隆夫の情熱は、売場作りにも向けられていました。
たとえば前述した当時のディスカウント店の店主たちは、サイドビジネス的に片手間でやっているような人も多く、今から考えればうまく行くはずがなかった。結局、私の言う店と売場づくりは、とてつもない手間暇とエネルギー、覚悟と情熱を必要としたからである。 もっとも、それを実感したのは、自ら直営してさんざん苦労と試行錯誤を重ねてからだ。ちなみにその後、ドン・キホーテ二号店が開業する一九九三年頃までには、それらディスカウント店のほとんどすべてが淘汰されていた。いかに生き残りが厳しい業界であるかがよくわかる。
ドンキホーテは、独自のプライベートブランドに「情熱価格」と名称をつけています。
ここにも、ドン・キホーテの売場作り、商品作りに対する情熱がストレートに現れているかもしれません。
そんな中で、最後発のちっぽけな小売店が、大手と同じことをやったって永久に勝てない。だからどんなことがあっても、絶対に人のマネをせず、独自の道を突き進むぞ……そうした強い自戒の念を込めたのである。
当時の先発組と言えば、GMSではイオン・ダイエー・マイカルその他大手に加え、百貨店では、三越・伊勢丹・高島屋など、一般から見たら、まさに超大規模の店ばかりです。
さらに近隣のディスカウント業者も数多存在する。
その中で生き残るには、大手と違うことを、やる、やりきる、常識をぶち破るなどです。
ただ中途半端にやったのでは、同業者らに潰されてしまう。
ぶち抜く意識で、とことん大手と違う道を行く必要があります。
それが深夜営業・圧縮陳列・独特のポップ・耳に残るCMソング、現在は石焼き芋から高級時計まであらゆる物を扱う業態。
例えば、この記事を書く過程で、担当者は地元のドン・キホーテに久しぶりに行きましたが、20年変わらないあのドン・キホーテのテーマソング、圧縮陳列、ハロウィンコーナーに、どこから仕入れてきたのかはわからないが、明らかに原価を大きく割っている定価3,800円、売価500の化粧水。
また、地域に多く住むブラジルにゆかりのある方のために、ブラジルコーナーも拡充し、ポルトガル語がわかるスタッフやポルトガル語が理解できるスタッフを配置。(一部競合店舗でも、ブラジルコーナーを拡充している店舗があります)。
また、これも筆者の経験ですが、新宿西口のビジネスホテルに泊まった際に、あるトークライブ終了後、終電も過ぎたドン・キホーテの店内をうろついていました。
明らかにナイトエコノミーの経済の住人、なにをしているのかよくわからない人、店内でやたらとはしゃぐ海外の人・・・、まさにカオス、混沌でした。
そんな中、夜の1時ぐらいに、明らかに酔っている男性が連れの人に、高級なバックを買ってあげている。
学生時代も都内にいたとはいえ、都市部の社会って、面白いものだな、と思いました。
腹をくくって、教えるんじゃなくて「任せた」
ドンキホーテが成長する中で、安田氏の売り方と従業員の売り方で、乖離が生じた場面があります。
安田氏がやるとうまく売れるのに、従業員だとうまくできない。
そこで、
「これでダメならきっぱり諦めよう」と腹をくくって、「教える」のではなく、それと真逆のことをした。 「自分でやらせた」のである。 それも、一部ではなく全部任せることにした。従業員ごとに担当売場を決め、仕入れから陳列、値付け、販売まですべて「好きにやれ」と、思い切りよく丸投げしたのだ。しかも担当者全員に、それぞれ専用の預金通帳を持たせて商売させるという徹底ぶりである。これこそ、のちにドンキ最大のサクセス要因となる「権限委譲」と「個人商店主システム」の始まりだ。
このように部分委任ではなく、「ともかくお前らを信頼する、任せた!」と全面的に権限を委譲したのです。
小売業をやっていれば分かるが、販売は嫌いでも仕入れが嫌いという人間はまずいない。たしかに仕入れには買い物同様の快感がある。個人の買い物と違って数量が多い分、心地良い緊張感も伴う。しかも会社の金で自由に買い付けができるのだから、これほど楽しく刺激的なものはない。 しかし自分で好き勝手に仕入れた以上、責任を持ってそれを売り切らねばならない。メーカーや問屋からは次々と段ボールが届き、みるみる山積みにされていく。担当者は到着した商品をすぐ品出しし、目の色を変えて自分が任された売場にそれを陳列するようになった。
会社のお金で仕入れができる、でも仕入れたからには売り切らなければ意味がありません。
こうすると、仕入・売場は、「いかに手に取ってもらうか」を必死に考えます。
「どうすれば一番良く売れるのか?」を皆必死に考え、色んなアイデア、方法を試みる。商品や売場のアピールもしなくてはならないから、競うように自ら手書きのPOPも書く。 そうこうするうちに、彼らはいつの間にか圧縮陳列と独自の仕入術を会得していった。結果的に私は、「泥棒市場」時代の自分と同じ環境に彼らを追い込み、そこでの原体験を疑似共有させたことになる。要は自ら考え、判断し、行動する「体験環境」を用意してやれば、従業員たちに〝頭脳と創造性〟がひとりでに育ってくるのである。 それまでの怠け者たち(失礼!!)が一変して、勤勉かつ猛烈な働き者集団と化したのには、もう一つ理由がある。
ある意味従業員を、店舗・売場というジャングルに放り込むことにより、自分たちで考え、動き、創造する集団に、従業員自身にならせる。ここも重要でしょう。
権限委譲によって、仕事が労働(ワーク)ではなく、競争(ゲーム)に変わったからだ。社員同士で競いあいながら、面白がって仕事をするようになれば、以心伝心でお客さまもそれを面白がり、店は一気に熱気と賑わいに包まれて行く。
このように、権限が委譲されれば、いかに委譲された者同士で実績を出すかというゲームに変わります。
ある種、職業の道楽化・ゲーミフィケーションといえましょう。
結果論だが、創業初期から安定期までの成長過程には、こういう「結果・数値」での社内競争をしていたら、いつの間にか成長していた、というところもあるでしょう。
ところで、ゲームでもなんでも基準がないと面白くないですよね。
例えば、信長の野望で全国統一というゴールがなかったから面白いか?
甲子園が、出場チームみんな頑張ったからみんな優勝!で納得するか?
この点、安田氏は、権限委譲において、
・明確な勝敗基準(勝ち負けがはっきりしないゲームはゲームではない)
・タイムリミット(必ず一定の時間内に終わらなければそもそもゲームにならない)
・最小限のルール(ルールが多くて複雑なゲームは分かりにくくて面白くない)
・大幅な自由裁量権(周りから口を出されるゲームほどヤル気が失せるものはない)
と、きちんと基準を設けていmす。
ただの丸投げではなく、ルール・基準・規範を決めた上での委譲です。
そして、権限委譲の上で、
権限を委譲する上での最大要件は、ベタな言い方だが「人を信頼する」、
これに尽きる。
としています。
社員を信頼し、仕事を任せれば、皆一生懸命になる。さらに仕事が面白くなってゲーム化することで社員には「勝ちたい」という強い気持ちが芽生える。当然のことながら、勝つと嬉しいし、負けると悔しい。だからゲームはやめられなくなる。この繰り返しにより、皆のレベルがスパイラル的に上昇し、現場はどんどん進化し、何度も脱皮して成長する。
こうした健全な社内競争(社内での変な政治闘争ではなく、数字に基づく信賞必罰)の結果、ドン・キホーテは圧倒的な成長したと考えられましょう。
安田隆夫氏の考える、信頼とは?
当書籍を記した安田隆夫氏は、信頼について、こう記しています。
信頼は「信じて頼む」と書く。たとえば、「君を信じている。頼むよ」と言われるのと、「ちゃんとやっておけよ」と一方的に命令されるのとでは、人が動かされる力に、天と地ほどの開きが出るだろう。 人は信じて頼まれれば、意気に感じてやるものである。そうした性善説に基づく経営をすれば、自然と信頼の輪が生まれる。
命令ではなく、信じて頼み、動いてもらう。
人材は管理か放任か。
会社により様々な考え方があるでしょうが、信じて頼む「信頼」というのは大きな要素でしょう。
攻めと守りに対する考え
経営には、攻めの局面と守りの局面があります。
この攻守の考え方についても、本書では興味深い事項が記されています。
私の信条は「攻めは他人がやらないことをアグレッシブに。しかし守りはベーシックに」だ。そもそも守りの基礎ができていなければ、アグレッシブな攻撃など怖くて仕掛けようがない。
また、バブルの時も、
「いまから手を出したら、絶対にやられる」というのは、直感的にわかっていた。若い頃に麻雀で養った勝負勘が、頭の中でアラートを鳴らしていた。
私は自分の意志の弱さもよく知っていた。ここはすべて見送るしかない。 つまり、勝負事でいう「 見」に徹したのだ。 案の定、見送って正解だった。バブルは弾けたが、ドンキは全く無傷で済んだ。 そればかりか、思わぬ「ツキ」も転がり込んできた。バブル崩壊後、好立地の店舗が売りに出され、ドンキはそれらを格安で手に入れることができたのだ。その後もバブルが弾けては買い、弾けては買いを繰り返してきた。なお、現在はほとんど買っていない。
としたことで、結果的に3度のバブル崩壊を見事に「見送り」で乗り切ったのです。
うまくいかない人には「見」がたりない
本書で安田隆夫氏は、「見」の重要性を繰り返し説いています。
ビジネスで成功する人としない人、それを分かつ原因として、「見」をあげています。
まじめで能力と才能にも恵まれているのに、なぜかビジネスでうまくいかない人がいる。そんな人は、私に言わせると、「見」ができていない。つねに全力疾走でいると、危険を知らせる微妙な変化にも気づかないのだ。彼らは一生懸命であるあまり、自分の墓穴を掘るにも一生懸命になってしまう。 ビジネスは長期戦だ。これから起業しようという人は、いたずらに尻込みする必要はないが、「見」をすべき局面もあるということを知っておいたほうがいい。
全力を出すことが大事というのは様々な人が言いますが、常に全力疾走でいると、変化に気づきにくくなり、結果として自分の墓穴を一生懸命掘るような行為をしてしまう恐れもある。
そんなオウンゴールに走ることのないよう、
- ビジネスは長期戦
- 見を決め込むことも必要
と記しているのかもしれません。
ルールを最小限にする以上は、反則の基準も必要だ
ルールを減らすと、「ではどんな手段を使ってもいいのか」となり、不正な手法や社内競合相手同士の貶め合いなど、間違った方向に行き着く可能性があります。
その点、安田隆夫氏は、自由に戦う上での、最小限の反則基準を定めました。
売場というゲームの戦場で各人が実力を最大限発揮するには、自由に闘えることが一番だ。そのためには規制はできるだけ少ないほうがいい。一方で、最低限の反則を決めておかないと、公平なゲームはできないし、公開企業になるのだから、それにふさわしい規則や約束事も必要になる。 同時に私は、創業経営者にありがちな独裁者や暴君にだけは絶対になるまいと、この時固く誓った。 私はこれを機に、「公私混同の禁止」「役得の禁止」「不作為の禁止」「情実の禁止」「中傷の禁止」の五つからなる御法度五箇条を定めた。
- 「公私混同の禁止」
- 「役得の禁止」
- 「不作為の禁止」
- 「情実の禁止」
- 「中傷の禁止」
明らかにこれは、適切な競争を行う上で排除すべきということを明確にした。
全てを任せる分、「これはダメ」も明確化した。
特に、役得によるリベートや、情実による従業員間での業績の操作、中傷などはどのような組織であっても起こりうることです。
これをルールとして「ダメ」と明文化した。
その上で、自由な競争を促したというところが興味深いです。
さらに、
- 圧縮陳列によるバックヤードの圧縮(不要化)
- 住民反対運動と住民との対話、そして2010年代からの風向きの変化
- 近隣をじわじわ攻めるのではなく、遠隔地を抑えることによる全国制覇
- 厚労省の「前例がない」問題を初めとする、役所相手の戦い
- 放火事件と遺族への思い、その後の対策
- 「無私で真正直な商売」への立ち返り
- ライバル不在状態が限界をぶち破れなくしてしまうこと
- イオンとのオリジン東秀TOB合戦
- 人は育てるものではなく、自ら育つ
- 会社の雰囲気は、そのまま社の商品やサービスに出る
- 社員が楽しく仕事をしていない会社の商品は、絶対に売れない。
など、ドン・キホーテという会社がここまで考えて創られていたのか、成長過程で様々なことがあったかが、これでもかというばかりに詰め込まれています。
ここまで書いた時点で、担当者のマーキングした部分のまだ半分に過ぎません。
ここから、様々な意味で異質なディスカウントストアであったドンキホーテが、そのDNA自体は残しつつ、親会社として「ビジョナリー・カンパニー」を目指し「大人の会社」に生まれ変わっていくプロセスが記されています。
小売り・不動産・一部ITなど営業力・販売力が物を言う業態において、多くの急成長する企業はトップが引っ張る、良くも悪くもワンマン経営であるケースがあります。
そして、先頭に立って来た社長は、後述の安田氏のように葛藤するかもしれません。
人生をかけて苦闘の末に築いたドン・キホーテという組織を、私の死後も未来永劫繁栄させるにはどうしたらいいのか? その一方では、安田隆夫という個の欲求をどうすべきか?……この二つの思いがつねに私の中に同居して拮抗し、ある時は前者、またある時は後者という具合に気持ちが揺れ、その振幅の大きさに密かに葛藤していた
と、「自分がいなくても会社を存続させたい」、しかし・・・、と悩むわけです。
ここで、名著、「ビジョナリー・カンパニー」を挙げ、
正直にいうと、当時の私の〝個の欲求〟とは、もっとお金を儲けたい、もっと自分を認めてもらいたいという、いかにも俗なものであった。私は俗な欲求と羨望、嫉妬にまみれた人間だ。しかし、この俗っぽい欲求、すなわち金銭欲と名誉欲が原動力となってドン・キホーテが生まれ成長したこともまた、厳然たる事実だ。 ともあれ、そんな迷いの渦中、人に勧められるまま『ビジョナリーカンパニー』を読み、文字通り目から 鱗 が落ちるがごとく、実にすっきりとした気分になった
私のような俗欲にまみれた人間がそう思うようになれたというのは不思議だ。おそらく私自身、俗欲と我執を断ち切り、ここで違う方向に舵を切らねばダメだという思いを、潜在的に抱いていたのだろう。そんな矢先に偶然『ビジョナリーカンパニー』に出会い、まさに「わが意を得たり」と感銘し、すとんと腹に落ちたのだ
とし、自身に我欲が相当あったことを率直に記した上で、「ビジョナリー・カンパニー」への転換を図ることを決意したと記されています。
また、書籍内で、ドン・キホーテのDNA、安田隆夫氏氏が経営で得た言語化できる要素を詰め込んだ社内誌、「源流」を挙げ、
「源流」で強調したのは、徹底した現場主義である。これは胸を張って言えることだが、流通業とりわけチェーン小売業の中で、ドンキほど営業現場を重視しリスペクトしている会社はないだろう。 たとえば私は現役時代、時間の余裕があるときは全国にあるドンキの店舗を「臨店」するようにしていたが、そこで店長や現場社員たちに文句を言ったり、ダメ出ししたようなことは、ただの一度もない。いつも、「君たちのおかげでこんな良い店を作ってもらって、本当に有難う!」と 褒めちぎり、現場を盛り上げることに徹していた
と、現場第一主義を強調しています。
また、一部業界では、ミスを許さない(一度のミスで閑職行き)となることで、チャレンジが阻害されることを憂い、
少なくとも当社の幹部の多くは、幾度もの失敗や降格から立ち直り、しぶとく勝ち上がる敗者復活を経験している。またそういう社員であればあるほど、「はらわた」の据わった大幹部に出世して行くケースが多い。 人は間違って当り前、判断を誤って当り前だ。人によって成り立つビジネスに無謬の世界などあり得ない。現実には(私を含めて)正しい判断より、誤った判断の方が多い。これが実態だ。間違いや失敗を恐れていては、果敢な挑戦などできやしない。ミスしたと気づいたら、速やかに撤退すればいいだけの話だ。
ミスでポジション移動などのを措置をとることはあっても、復活のチャンスを与えたり、「ビジネスに無謬はない」と割り切り、「ミスがあるのは当たり前、ダメなら撤退」と非常に割り切り、かつ合理的な姿勢をとっています。
モノあまりの現代への疑問
既存のDSに対するアンチテーゼ・モノあまりの現代に対する疑問も当書籍では提示しています。
ドンキがこれまでDS小売業として一人勝ちを謳歌できた最大の要因は、「権限委譲を前提としたアンチ・チェーンストア主義」という、独自のやり方、すなわち逆張りを貫き通してきたから(中略)
それが今、逆回転を始めている。なぜか。簡単なことだ。社会と経済と消費そのものが、根本から変わったからである。モノ余り、モノ離れと言われる現代ニッポンの消費社会において、もはや画一的な商品の大量供給など必要とされていない。むしろ多様化した「個」のニーズにどう対応するかが、今の流通業最大のテーマだ。
とし、当時是とされたチェーンストア理論に対し、
私の経験上、こうした一見もっともらしい理論がいちばん危ない。IQの高い人が経営で過ちを犯すのは、理路整然と経営をおこない理路整然と間違うからだ。金融や投資の世界でも、理路整然とした理論はいくつもある。そして皆、それを信じて理路整然と間違える。理路整然だから正しいということには、けっしてならない。 そもそも人間の心理は理路整然とはしていない。いろんな矛盾をかかえながら生きているのが人間の様であって、それが生きている証(中略)
とも示している。
「はらわた力」とは
世間ではいわゆる「胆力」と称される、いざという時に腹が据わっていることを、当書籍では、「はらわた力」と例えています。
「はらわた」力の有無が、土壇場に追い詰められた人の明暗を決する。周りがすべて討ち死にしても、一人だけ生き残る強運を、「はらわた」はもたらしてくれる。 賢明な読者はもうお察しだろう。私の言う「はらわた」とは、もがき苦しむ力であり、紆余曲折しながら最後に這い上がろうとする一念(中略)
矢折れ尽き果てたかに見えても、もがき苦しみつつも、そこから這い上がる、この「はらわた力」というのは、なかなかもてるものではありません。
私は人生でも仕事でも、「もうダメだ」と進退きわまる局面に幾度となく陥った。(中略)
そんな時、いつも内から不思議な力が湧いてくる。そして何らかの活路を見出し、どうにかこうにか浮び上る……今もその繰り返し(中略)
人生も仕事も経営も、きれいごとばかりではない。高邁な理想を語る前に、まずは目前にある現実との格闘が待ちうけている。 だからこそ「はらわた」を据え、常に粘り強く戦い続けなければならない。繰り返すが、格闘における最大の武器は「はらわた」である。そして「はらわた」の核を形成するのは、「何が何でもこうありたい」という自己実現の強烈な思いと執念、ひたむきさにほかならない。
様々な意味で、人生はきれい事ばかりでない、というのは多くの人が実感されているでしょう。
きれい事を口先だけで言うのは簡単、しかし目の前の現実、しかも理想と違って生々しい現実とどう向き合い、格闘し、解決していくか、これは経営者・社会人の多くが抱える課題です。
既存の常識を疑え
既存の常識を疑え、というのは様々なところで言われます。
しかし、ドン・キホーテほど、GMSの定石とかけ離れた手法を取り、急成長を遂げた会社は珍しいと言えましょう。
そして、既存の「経験を積み、知識を習得し、資金を貯めるという既存の定石に、
「んなワケあるかボケ!後発組が先発組と同じごとを勝てるわけないだろ!」
と(もちろんここまでの書き方はされていませんが)いう突っ込みをされています。
「まずはその道の優良企業に就職して経験を積め。そこでしっかり知識を習得し、技術を磨きながら、資金を蓄えてその日に備えよう」 これは完全なウソである。一見、説得力のある言葉だが、その分、人を惑わす罪深な大ウソである。今のような激動と大競合の時代に、そんな子供だましの教えは通用しない。
既成の業界常識やシステムに則ったやり方をしている限り、やがて資本と情報力に勝る大資本に喰われる。これは生き馬の目を抜く現代ビジネス社会の掟であり必然だ。 小売業で言えば、どんなに個性的な繁盛店を作っても、その本質が既存業態の延長であれば、成功ノウハウはすぐ盗まれる。その上で同じ商圏に大手チェーン資本が進出してくれば、個店はひとたまりもない
資本も技術もない私の場合、大手のマネをしようという発想そのものすら思い浮かばなかった。だから無手勝流、つまり自分がナマで体験し考えたオリジナル戦法を積み上げて戦うしかほかに術がない。
つまりカネもない、技術もない、ともかく自分が現場で体験したこと、そして売上、顧客反応のフィードバックを積み上げる。
大手と違うからこそ、勝てるわけであり、現場体験の中から生み出されたのが、「深夜営業」「圧縮陳列」「近隣住民へのサービス」「1円玉のおつりボックス」「通年販売の石焼き芋」「PBの情熱価格」「うまい棒から高級品まで」「健全な社内競争」「店舗特性と尊い命の犠牲を通して徹底的に強化した防火・防犯体制」など、様々な「ドン・キホーテならでは」の仕組みといえましょう。
そして、「業界の常識」にも異を唱えています。
業界常識に従うとは、そうした先発企業と同じ土俵、同じルールで戦うことを意味する。言い換えれば、業界常識とは「勝利者の論理」であって、「勝利のための論理」ではない。だから、後発企業が先発企業のマネをしても絶対に勝てない
後発組、弱者にはそれなりの戦い方があるし、業界常識に従っていては、勝てない。
これも確かにその通りと思うとともに、「業界によっては、(閉鎖的な業界ほど)業界常識に逆らうほど目をつけられて、ダイレクトに潰されたり、真綿で首をしめられるようにじわじわと潰される可能性も考え得る」ということです。GMSのような自由競争に近い業界でもですから、規制業界などはよりその傾向が強いことも想定されます。(許認可の取り消し・営業停止処分=ビジネスの終了・急ブレーキとなるわけですから)
そこで、同業他社がぐうの音も出ないくらいに突出するか、業界の常識にあわせつつも、オリジナリティを出すなど既存の業界慣習と折り合いをつけるかですが、前者を選んだドンキは、創業当初から様々な意味(治安・手法・反対運動など)で異議を唱えられたり、疑問を呈されたり、出店に反対され、様々な方面からバッシングを受けます。
担当者が学生時代に住んでいた地域でも、以前のドンキは「あまりにも異質な印象」でした。
しかし、それから時が経つと、羽田空港国際線のターミナルに出店する、大手コンビニエンスストアとアライアンスを組み、コンビニ内でドンキのコーナーを展開する実験店をつくる、長崎屋やハワイのマルカイを買収する、一方で既存のGMS。百貨店が苦境に陥るなど、まるでオセロゲームの駒がひっくり返るかのように、ドンキは「勝てば官軍」のごとく、小売り・流通業界の数少ない勝ち組になったのです。
知恵と知識
本書では、起業家にとって必要なのは、「知恵」であって「知識」ではない、と述べています。
経済も消費も成熟した今のような時代、起業家にとって最大の資本は金ではない。「知恵」だ。 知恵は知識ではない。知識や体験は時として邪魔にさえなる。知恵は常にしがらみや制約のない自由な(中略)と発想の中から生まれる。この知恵の発揮こそ、プロや大手に勝る、素人最大の財産(中略)
知識を詰め込んだ、学校型の秀才では勝てない。
ボトルネックを例えとし、
私の頭の中には、いつもこのボトルネックが複数存在している。こちらからあちらに行きたいけれど、ボトルネックの先には進めない。逆にそこを抜けだすことができれば、一気に問題が解決する。どうすればそれをクリア(脱却)できるのか、ああでもないこうでもないと、色々考えるわけだ。 私の場合、短い時間に集中して考えることはしない。たとえば一週間とか十日といったタームで、ボトルネックを頭の中で飼い、同居するのだ
この時間は、非常に苦しい。まさにガマガエルのごとく、脂汗を流しながら苦悶し、唸りながら考える。 だが、ボトルネックをスコーンと抜ける瞬間がやってくる。 「あ、そうだ!」「これだ!」 思考がスパークし、自分の腹にすとんと落ちてくる。頭の中に火花が散る感じもする。私がものを考えているとき、いつも発想がパッと浮かんではパッと消える。それこそ泡みたいなもの(中略)
だから脳細胞のパルスがパッと火花を散らしている時に、その瞬間をとらえなければならない。瞬間が勝負だ。だから、イメージを書き留めることもしない。書いているうちに、そのイメージが逃げてしまう。書くスピードが追いつかない
とした上で、ビジネスは、当然学校と違う答えのない世界であり、見えないボトルネックを認識することが重要であり、解決のためのひらめきを得るために、思考・行動など様々な意味での試行錯誤が求められることも記されています。
たとえば学校の秀才は、問題があって必ず答えがあるという世界に生きている。しかしビジネスでは、見えないボトルネックの存在を認識できなければダメだ。さらに、ボトルネックはいつもその形が異なるし、答えもその都度異なる。一つの方法だけでなく、いくつかの方法を組み合わせて、やっと抜けられる場合もある
ネックが細いほど、つまり難問であればあるほど、ウンウン唸って考え抜いて、最後まで来ても優柔不断に陥り、決断できない(答えが出せない)ことがある。 どんな決断にもリスクがあり、とりわけ難問に対する決断は誰だって怖い。私だって同じだ。そこで「踏み込む力」が必要になる。そういう意味では、単なる知恵だけでボトルネックを抜けることはできない。知恵にプラスして、勇気と胆力が不可欠になるのだ
自分ではなく相手を主語にせよ
ビジネスで言われるのは、顧客ファースト、顧客を起点にするとよく言われますが、実際自分がその立場に立つと、
「いい商品を作ったのにうれない」
「いい作品を創造したのに世間が認めてくれない」
「いいアイデアを発想したのに金融機関やVCが理解してくれない、他者が理解してくれない」
など、自分起点になってしまうことが、どんな人でも少なからずあるでしょう。
これに対し安田隆夫氏は、
仕事やビジネスでは、常に主語は「自分」ではなく「相手」に置くべきだ。すなわち「主語を転換せよ」というのが、私の中でも最大級の体験的成功法則である
ジリ貧とは、相手、すなわち取引先や消費者にとって、自分のビジネスや商売に対する必要度と支持度が低下している状態を指す。その原因も、本気で相手の立場になって考えれば瞬時に解明できる
仕事をしていれば、多かれ少なかれ誰もが壁にぶつかる。よほど吞気な人でない限り、なぜその壁を越えられないかの原因を探り、様々な打開策を試みるだろう。でも、うまく行かない。色々やってみるのだが、なかなか壁を越えられない、突き破れない。 こういう場合は、打開策が同じ立脚点からしか発想されていないことが多い。
と述べられており、なるほどその通り、と感じますが、著者の安田隆夫氏自身も述懐し、
「目から 鱗 が落ちる」という喩えがある。何かがきっかけになって急に物事の実態がよく見え、理解できるようになることだ。 私も自らの商売と経営の行き詰まりを通じて、目から何枚も鱗を落とし、そのつど発想の転換を図って自分を改めた。中でも最大のそれは、「相手の立場になって考え、行動する(中略)
「言うは易し行うは難し」で、これがなかなか身につかない。生まれつきよほどのお人好しか達観した人でない限り、世界は自分を中心に回っているから、ほとんどの人の目には、「主語は自分」という鱗が何層にもへばりついている。 私の場合もそれを落とすには、窮地に立つ修羅場経験や苦労、そしてその状況を何とか打破せんとする、強い思いと意志が必要だった。
そんな辛酸を何回もなめ、私はどうしていいのか分からず、一時は行き詰まりに行き詰まった。そうして幾重ものボトルネック脱却を繰り返し、ようやく見えて来たのが、「売る側の意図など、買う側からは簡単に見破られてしまう」
と、行き詰まってから初めて「相手の立場に立って行動する」ということが腸に落ちたわけです。
この苦闘の中から出てきた発想が、
商売は真正直が一番儲かる それを思い知らされた私は、ならば真正直に商売をやろうと思った
という境地です。
不思議なもので、そう決めたとたん、売上と利益はみるみる上がりだした。結局、商売は真正直にやるのが、最終的に一番儲かる方法なのだ。商人道を説くつもりはないが、現代の商売において、真正直こそが最も実効性の高い現実的手法なのだ
もちろん商人なら誰でも、「売りたい」「利益を上げたい」と常に思っている。一方、「売上に貢献して儲けさせてやろう」と店に来られるお客さまは、ただの一人もいないはずだ。この売り手と買い手の構図は未来永劫不変だろう。 ならばいっそのこと顧客の側に立って、「ドンキに来て面白かった、得をした」と思っていただこう、というのが当社の基本姿勢である。つまり主語を転換して、徹底して買う側に立った発想をする
と、誰もが思う、わかっていても、わかっていてもなかなか買う側発想ができないというところを、切り替えて行かれたわけです。
売る側にも買う側にも振りきらないファジーさ、言い換えれば相反する要素を融合させる優れたバランス感覚を維持すること。これができて初めて顧客本位となり、その結果、店として利益を出せるというのがドンキ流
と記しておられます。
これも興味深い一節でしょう。
ここまでで、引用をかなり含めてではありますが17,000字近くと非常に長くなりました。
この書籍は、様々な意味で興味深い点が詰め込まれており、ここに盛り込んだ要素の、本書の半分にも満たないレベルです。
ぜひ原著をお買い求めください。
次項で続きを述べます。